水には気を付けろ(コラム/エッセイ)

※この投稿は5分から10分程度で読めそうな内容です。たぶん。

久し振りに味噌煮込みうどんを食べに行った。久し振りと言うと、時間の感覚はアリとゾウでは全然違うのだからもう少し定量的に示せと言われるかもしれない。少なくとも半年は経っている気がする。半年やそこら経っていそうだ。

どれくらい経っているのか、心当たりがある時期に撮影したデータを見返してみた。撮影したデータの95%がパチンコ、パチスロの画像で、残り5%の大半がラーメンだった。そして味噌煮込みうどんの写真を見付ける事はできなかった。

味噌煮込みうどんを食べに行くのなんて日常過ぎて写真にすら撮っていない、そんなパターンも考えられるがそれはあり得ない。記憶にある限り、今住んでいるところに越してきてからの約15ヶ月の間に2回しか食べに行っていない。

ぼくは名古屋には住んでいるが、「名古屋人」ではない。10年以上は(広い意味での)名古屋に暮らしの拠点を置いているが、名古屋人になったつもりはないのだ。江戸は三代、京都は十代そこに居ついていないと土地の者を名乗る事はできないと言うから、名古屋でも名古屋人を名乗るために似たような条件はあるだろう。

少なくとも、「つけてみそかけてみそ」か「献立いろいろみそ」のどちらかが冷蔵庫に常備されていなければならないはずだ。ぼくの家の冷蔵庫にそんなものは入っていない。既に中京圏にゆかりのない人を置いてけぼりにした単語選びになっているが気にせず進めよう。

名古屋人になれているつもりにすらなれないのは、そういうところにある。家の冷蔵庫にかけるタイプのみそが入らないように、どうにも名古屋の食文化が体の中に入りきっていないのだ。

そもそも「かけるタイプのみそ」という文言が強烈である。中京圏の人からすれば何も感じないかもしれないが、他の地域の人の顔色を見てみて欲しい。何か見てはいけないものを見てしまったような、ドラゴンズブルーよりも青い顔をしているはずだ。ドラゴンズブルーは青というよりは紺だよね、とか思っている人がいるかもしれないがそういう話ではない。

ただ、なかなか名古屋の食文化と相容れないところがあるぼくも、味覚が柔らかくなってきたのか味覚を司る脳が柔らかくなってきたのか、名古屋メシと呼ばれるものをときどき食べたくなる周期がある(名古屋メシは本当は中京圏メシと呼ぶべきだが、分かりやすさを重視して名古屋メシと書く)。

ただ、今回の場合は周期というよりは玉突き事故みたいな話ではある。味噌煮込みうどんを名乗るカップ麺を食べたら、お店の味噌煮込みうどんが食べたくなったというだけのことだ。

豆みその風味豊かな熱々の汁の中に、やや硬ゆでになった平たい麺が身を浸している。トッピングには鶏肉と卵を選んだ。今回行ったお店ではこの組み合わせを「親子」と言う。人とは業の深い生き物だ。

己が舌を満足させるために他の生物の命(植物も「生物」なので注意されたし)を貰ったことがある者は皆、生尽きた後の旅路はろくなものにならないことが確約されているのではないか。「毒を食らわば皿まで」というのはこういう主張に対する便利なことわざだ。とりあえずこの言葉を唱えておけば開き直れる。

さて、久し振りに食べてみて思ったのが、味噌煮込みうどんは味噌煮込みうどんでしかなく、それ以外の何者にも喩えがたい代物であるということだ。

そもそも、これは「うどん」なのか。

いや、定義論を云々したい訳ではない。あなたがうどんだと思えばそれはうどんなのです、そんなフレーズが頭に浮かぶ。源氏物語はラノベだと思えばあなたの中ではラノベなのだ。

という話をしたいのではない。

中京文化圏に身を浴していない人に、うどんでも食べに行こうか、と言って味噌煮込みうどんの店に連れていったら怒られると思う。味噌煮込み以外のうどんも取り扱っているとかそういう話ではない。

うどんというのは大体、生き物のなきがらから染み出た成分を含む澄んだ汁(色合いは地域による)に円柱型で白いにょろにょろした物体が浸かっているもののことを指している場合がほとんどだ。カレーうどんとかほうとうとか伊勢うどんのことは一旦脇に置いてくれ。

味噌煮込みうどんはこの「うどん」という名前で誤解されることが多い。味噌煮込みうどんを受けつけない人の9割(ぼく調べ)が、「あんなのうどんじゃない」「生煮えはちょっと」などと各自の中にある「うどんのイデア」と比較して味噌煮込みうどんを否定する。残りの1割が「そもそも八丁味噌が嫌い」である。それはまあどうしようもない。

イデアというのは簡単に言うと「これはこういうものである」という各自の中にあるイメージのことだ。少なくともぼくはそういう意味で使っている。少し定義論の話に戻ってしまっている気がする。

話を戻すと、味噌煮込みうどんを知らない人に味噌煮込みうどんという名前だけ教えて食べさせたときに「思った通りだった」という感想を貰える可能性は輪中の海抜より低い。ちなみに中京圏で義務教育を受けていないと輪中という言葉は通じない可能性が高い…と思う。なので、この言葉を知っているかは中京圏出身者をあぶり出すために用いることができるのだ。隠しても分かるぞ。

名前のイメージとなんか違うシリーズは他にもある。あんかけスパゲティだ。やや柔らかく太いスパゲティに野菜やウインナーなどを加えて炒めるなどして、胡椒などでスパイシーに仕上げた「あん」をたっぷりとかけた、アレのことである。これもまた、「スパゲティを名乗らないで欲しい」などと揶揄されがちだ。

だが、味噌煮込みうどんもあんかけスパゲティも、「そういうもの」として受け入れ、そのルールの中で味わえば他に類を見ない独特な味わいがある。それこそがこれらの料理の魅力なのだ。

その味わいを求め、味噌煮込みうどんを食べに行ったのが、今のぼくなのだ。

そんな、「したり顔」風に語ってはいるが、一抹の不安がある。ぼくの体は既に名古屋に侵食されているだけなのではないか、ということだ。良く見かける「口ではそう言っても体の方はそうじゃないみたいだぜ」というやつだ(一体どこでよく見かけるのだろう)。

ここのところ、生活環境に変化があって意識的に摂取している水分はパックから出した麦茶がメインになっている。この麦茶の主成分は名古屋市水道局から提供されている水道水だ。以前飲んでいたペットボトルの麦茶と完全に入れ替わったことになる。

つまり、今ぼくの体にある水分のほとんどが名古屋市の水道水に入れ替わったのである。四捨五入したらぼくの体は名古屋市の水道水100%で構成されていると言ってもいい。ぼくの細胞は隅から隅まで名古屋市の水道水なのだ。名古屋に住んでいる多くの人と同じように。

名古屋人になったつもりがなくとも、ぼくの体はすっかり名古屋そのものになっていたということだ。名古屋メシが少しずつ体に合うようになってきたのもおかしいことではない。

旅先では水に気を付けろと良く言われているが、ことの怖さを実感した次第である。水分を体に取り込んだつもりが、土地に取り込まれていたというわけだ。

と、長々と書いてきたが一言で言うとこうだ。

最近、体に取り入れる水分の大半が名古屋の水道水になってきたので名古屋メシが体に合うようになってきた疑惑がある。

だったら始めからそう書けという話なのだが、それは腹に入れば一緒だと言って数々の料理の存在を否定するような話である。ぼくの調理したものが読んでいる人の口に合うかどうかは分からないのだが。


このページをかいたひと:藤盛仁輔

ライター。このサイトでは半年で日本二周したときに訪れた場所についてなどをかいています。

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