お前たちが俺の翼だと思ったがそうでもないかもしれない(コラム/エッセイ)

初めて補助輪を外した日のことを覚えているだろうか。残念ながらぼくはその日のことを覚えていない。自転車が登場するはっきりとした一番古い記憶は、小学校の高学年になったある休日に関するものだ。季節までは覚えていない。ぼくの育った地域では、小学4年生になるまで自転車に乗ることが禁じられていたので、自転車に乗った記憶としてはまあまあ古い方だとは思う。

運動が大して得意ではない癖に当時のぼくは少年野球のスポーツ少年団に所属していた。小学生の流行に流されやすさというのはなんとも不思議なもので、運動なぞ大してできもしない癖に少年野球を初めてしまったのだ。

さて、その残っている記憶は何なのかというと。少年野球の練習の集合時間は9時だったので、それに合わせて通っていた小学校まで自転車を走らせていたときのものだ。

小学校の校庭に着いてみると、どうも様子がおかしい。多くの人が小さな小学校の校庭に詰めかけ、何らかのスポーツで盛り上がっていた。既に練習が始まっていたのかとも思ったが、野球の練習着を着た人はどこにもいなかった。どこかの町内会の運動会のようなものがやっていたのだ。

はて、タイムスリップしてしまったのかしら、とあらぬ妄想をしながら家に帰った。やりたくて入ったはずなのに、しめしめ、今日は練習に出なくて済むぞとウキウキしながら家に帰ったのを覚えている。

練習に対する姿勢はご覧の有様だったので、ぼくはレギュラーとはほど遠い位置にいた。野球団に所属している人数は20人もいなかったので、試合においてぼくは光栄にもベンチ入りメンバーが定位置だった。ベンチ入りすらできないのに比べたらきっといい位置だろう。深く追求してはいけない。

少年野球をやっていたことは大していい思い出ではないので、思い出そうとしても大して思い出せない。そういえば4番ピッチャーの子からちょっといじめられていたな、というようなことくらいしか思い出せない。この記憶はまた沈めておこう。

1つだけいいのか悪いのか分からないがはっきりした記憶がある。ある日のことだ。ぼくは右利きなのだが、ある日の練習中、監督から「左打ちでバットを振ってみろ」と指示された。どうやらぼくはバットをうまく振れていたらしい。その日からぼくは左打ちに転向した。

そのカラクリはこうだ。

  • ぼくは小学校低学年だった頃には大して足が速くなかったが、高学年になるにつれて同学年の児童の中でなぜか相対的に足が速い方になっていた。
  • ぼくのバッティングは残念ながら上手ではなく、振り遅れる上にパワーもなく、ボテボテの内野ゴロしか打てなかった。

こういう人が打席で役に立つためにはどうしたらいいか。監督の出した答えが、ぼくを左バッターに転向させる、というものだった。

ボテボテの内野ゴロをサード方向に打って、ファーストに向かって駆け抜ける。そうすると見事な内野安打が記録される、というわけだ。ぼくはあのイチローと同じプレイをすることが可能になったのだ。しかも試合に出場するときのぼくは決まって外野手だった。違いは、内野安打を狙ってやっているのか結果としてそうなったのかだけだ。だけ、というには大きすぎる気もする。

結局、バットに球が当たらなければどうということはないのでぼくが打席に立つ機会は大して増えなかった。ぼくはイチローになれなかった。

さて、ぼくが期せずして練習をサボってしまったその日。何が起きていたのかを後で知ったが、その日の練習場所は小学校の校庭ではなかったのだ。小学校の校庭ではない場所で練習するときには8時45分に集合し、保護者の車でそこまで向かうというのが通例になっていた。ぼくがしたのはタイムスリップではなく、ただの遅刻だった。

練習の集合時間に関する伝達がうまくいってなかったからこういうことが起きたのだ。ただ、こういったことは後にも先にもこのときしかなかったので、ぼくがいじめられていたとかそういうことが原因ではないと思う。

そんなたまたまのことが、自転車に関する一番古い記憶だった。そしてこれは今日の本題には一切関係ない。

ぼくはKONAMIの音楽ゲーム「ノスタルジア」を好んでプレイしている。これは、ピアノを模した筐体の鍵盤を、画面上に流れてくるオブジェクトに合わせて押すと音が鳴り、ピアノを演奏しているような雰囲気で音楽を楽しめる、というゲームだ。

残念ながらこのゲームに関して、ぼくは少年野球のときと同様、「上手」からは程遠い位置にいる。それでも向上心はあるので、少しはうまくプレイできたらいいな、と思いながら散発的にプレイしているのである。

上達するためには、結果の分析が不可欠である。大抵の場合、音楽ゲームにおいての上達は「スコア」の上昇を意味する。このスコアを見ていて、ある項目の数が無視できないほど多いことに気が付いたのだ。

「Near」という項目だ。これは、言ってみれば、「惜しいけど正しくない位置の鍵盤を押しているよ。かわいそうなので見かけ上対応した音は鳴らしてあげるけど点数はあげないよ」というものだ。野球でいえば、バットにギリギリ球が当たっているけれど前には球が飛ばない、みたいなことだ。

プレイ時のオプションで「Near」の有無を選べるが、ぼくはずっと「Near」ありの状態でプレイしていた。このオプションはまだプレイがおぼつかない人を手助けする補助輪のようなものだ。まだ補助輪を外すには早いのではないか、とも思ったが試しにこのオプションを外してみることにした。

スカッ。

そんな音がした訳ではないが、今まで「Near」判定が出ていたところは「Miss」という項目になり音がしなかった。これまで音が出ていたところで音が出なくなったのでものすごい違和感だ。本物のピアノだったら、変な音が鳴るだろうからもっと変なことになるだろう。

つまり、今まで指が届いていたと思っていたところの一部が届いていなかったのである。これを届かせるようにすればスコアが上がるのは間違いない。ぼくは指を届かせるために意識してプレイした。

これまで何度やってもハイスコアが更新できなかった曲でハイスコアが出た。

こうやって書くと何かのサクセスストーリーのように見えるが、手練れの人たちからすると大したことでもないのに大したことのように書いているだけである。

だが、ぼくにとってこれは初めて補助輪を外して自転車に乗れたようなものなのだ。感動のドラマがあるように書いてもいいではないか。

それまで補助輪がないと走れないと思っていたけれど、ちゃんと走れたのだ。右利きだから左打ちに転向してイチローのようなバッティングをすることができないと思っていたのに、それができてしまったあの日のことが思い出された。

これは音楽ゲームの話だが、日常生活の中にも当てはまることはあるかもしれない。あなたなしでは生きてゆけない、と思っていたら別にそうでもなかったね、とか。この場合捨てられる方はたまったものではないだろう。

かくいうぼくもスカパー!は生活に必須だと思っていたが対応していないマンションに引っ越した結果、まあそうでもないかな、と思うようになった。これは実は嘘だが。スカパー!は恋しい。CMを見るたびに、「悲しいけどこのマンション、非対応なのよね」と心の中で呟いている。

脱線しそうなので無理矢理話を元に戻す。補助輪というのは呪縛にもなり得る。〇〇が必要だから生活を変えることができない、というのは思い込みということがある、そう思った。

ちなみに。補助輪を外してスコアが飛躍的に上昇したかのように書いたが、全ての曲でうまくいった訳ではない。プレイする曲によっては指の届いていない部分が多すぎて、それを意識しなければならない余り、スコアがボロボロになることもあった。

補助輪を外したらハンドルコントロールを誤って転んだという形だ。もし公道でこんなことをしていたら命の危機だ。この文を読んで日常において必要だと思っていたものを外したせいで大けがした、なんてことの責任は取れないので補助輪を外すのは自己責任で行って頂きたい。


このページをかいたひと:藤盛仁輔

ライター。このサイトでは半年で日本二周したときに訪れた場所についてなどをかいています。

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