※この投稿は5分~15分程度で読める内容です。たぶん。
朝目を覚まして、しばしゴロゴロしながらラーメン店のレビューを読んでいたときのことだ。と、書き出しつつ朝から何を読んでいるんだと思わないでもないがその時のぼくは昼にどんなラーメンを食べようかと思い、候補の店を探していたのである。
そのレビューには、実に驚くべき革新的な表現が使用されていた。その表現は、溶き卵が乗っているタイプのラーメンを紹介する内容の中にあった。麺を箸上げしたときに玉子が麺に絡みつく様子が「独特なテクスチャ」と紹介されていたのだ。
ラーメンの話をしているときに「テクスチャ」という単語が出てくるのを初めて見た。が、何となく言っている事は分かった。
テクスチャと言うのは大まかに言えば「質感」とか「風合い」を意味する言葉だ。転じて、パターン化された画像や素材のことを指す単語としても用いられている。インターネットをやっていると、テクスチャという言葉は後者の意味合いで目にすることが多い。
逆に、ぼくが読んだラーメンの紹介においては見た目の質感や風合いを意味する言葉として「テクスチャ」という言葉を用いているのでこれは前者の用法にあたる。
こうしてぼくは、やれやれ、また凄い言葉に遭遇してしまったな、とアメリカンな感じで一息ついたのであった。だが、話はここで終わらない。終われない。終われなかった。ことの顛末を考えると終わっておくべきだったかもしれない。
もしかして、このテクスチャという用法はぼくの知らないところでコソコソと使っている言葉だったのではないだろうか。誰かがついうっかりぼくの目に触れさせてしまったのではないのだろうか。そう思ったのだ。
実はみんなラーメンに関してテクスチャという言葉を使っていて、ぼくだけが知らなかっただけではないかと。ぼくの知らないところでぼくの知らない言葉の使い方をしているということであれば、同時にいじめられているとかバカにされているとかいうことに直結してしまう。
「もしかして:ネットいじめ」というフレーズが頭に浮かぶ。被害妄想も甚だしいが、妄念に囚われている者の行動は早いと相場が決まっている。ぼくは迅速に「ラーメン テクスチャ」と検索エンジンに入力した。待っていろ、お前たちの悪事は今ここに暴いてやる、という義憤と共に。
結果は何となく想像がつくと思う。検索結果には、ラーメンの丼に描かれているあの渦巻のようなマークが表示された。違う、そうじゃない。そう心の中で悪態をつく。だが、本当にラーメンのレビューで「テクスチャ」という単語を使用する「発明」の現場に遭遇してしまった可能性が消えていないことにもなるので、心はやや穏やかであった。
念のため、あくまで念のためだからね。そう誰に対するのでもない言い訳をしながらTwitterでも「ラーメン テクスチャ」と検索をする。Twitterにはイラストなどを中心としたグラフィック方面の活動をしている人が多い。思った通り、画像素材的な意味合いでラーメンのテクスチャに言及しているツイートがほとんどだった。
まあ中には、「テクスチャの作成がうまくいったからラーメンを食べに行く」みたいなツイートもあったが。違う、そうじゃない、と思ったが相手からしてみたら知らんわという話である。仕方ないだろう、ぼくはネットいじめにあっているかどうかの瀬戸際なのだ。少々の身勝手は許してもらいたい。
だが話はここで終わらない。終われない。終われなかった。ことの顛末を考えると終わっておくべきだったかもしれない。見なければいいのに検索結果を少し掘ってしまったのだ。
「麺のテクスチャがいい」
そんな文言が目に入る。そのツイートをしている人のアイコンがこちらに目を向けて「見たね?」と言ったような気がした。
背中に当たっているこのツンツンしたものはもしかして刃物なのではないか、と気付いたときのような冷や汗が流れる。これは比喩だ。そんな経験はない。そういう事が起きてもおかしくないくらいの事態を引き起こした記憶があるかないかについては黙秘権を行使しておく。
ぼくは人に生かされているだけなのだろう、と思うと自然と毎日を大切に過ごすようになるのでそういうことがあったと思っておくのもいいかもしれない。朝起きて布団の上で寝転がりながらラーメンのテクスチャという単語を検索してしまうことの是非は置いておいて、大切に時を過ごしたいものである。
さておき、「麺のテクスチャがいい」だ。なおこれは原文ママではなく、そういう意味でテクスチャという単語が使用されている例があった、という話である。このツイートでは、つけ麺の麺を褒める文脈でテクスチャという単語が使用されていた。添えられている写真を見ると確かにいい質感、風合いでうまそうな麺だった。
この言葉を使っている人を批判するつもりはないのだが、よく考えるとこの「テクスチャがいい」という言葉は説明が足りていない。仮に「質感がいい」とか「風合いがいい」と言い換えても、説明が足りていないのは変わらない。どんな方向の質感なのか、などの具体性がないのである。
だが、ぼくはこの「麺のテクスチャがいい」という文言の意味するところが分かったのである。逆に「麺の質感がいい」と書いてあったらピンと来なかったかもしれない。ぼくがこの「麺のテクスチャがいい」という言葉からイメージしたものはこういう事だ。
「麺は噛み応えがありそうな太さで、程良い水気をまとい、つやつやしている。表面には小麦の表皮らしきものが見えているから全粒粉の麺だろう。食べる前から小麦のふくよかな香りに期待できる。噛んだ瞬間の歯切れも良く、心地良いのど越しで適度な擦過感と共に吸い込まれてくれそうな見た目だ」
きっと「麺のテクスチャがいい」というのにはこれ位の意味が込められているのだろう。ちなみにこれで135字あるのでTwitterならもう麺の紹介だけで1ツイート埋まってしまう。そこを10文字で済ませることができるのだからそりゃあテクスチャという言葉も使いたくなる。図らずも、グラフィック方面で省力化の意味合いもあるテクスチャと同じようにテクスチャという言葉が使用されているわけだ(少し違う)。
ある言葉が含んでいる意味合いというのは、表現する側と受け取る側で意味することが共有できていれば、つうと言えばかあのような通りの良さが生じる。それはさながら、のど越しのいいつけ麺を食べたときのような心地よさすらあるものだと思う。
だから、ぼくたちは互いの間で通じる符丁のように、新しい用法で言葉を用いるのだろう。これは別にラーメンの表現をするときにテクスチャという言葉を用いる例に限った話ではない。
趣味の世界の仲間の間でしか通じない隠語や、同業者の間でのあるあるを表現した特殊な略語を使って、我々は互いの結びつきを確かめ合う。しかし、その一方でその言葉が分からないものは疎外感を味わうのだ。
思ったよりも「ラーメンのテクスチャ」という言葉を知らなかったぼくがネットいじめに遭っているという無茶苦茶な論に真正面から接続しそうな話の流れになってしまっている。これは良くない。真っ当な話になってはいけない。
件のツイートに添付された写真を良く見ると、麺は別に全粒粉麺ではなさそうだった。おかしい。この文脈でテクスチャがいいと言ったら全粒粉の麺を指すと思ったのに。所詮、気持ちが通じたなどという幻想は儚いものなのだろう。
そう思い、もう少し使用法を見てみる。「麺はtextureが大事」「〇〇ラーメンらしいtexture」。アルファベット表記まで出てきてしまった。いよいよ頭が痛い。ぼくはラーメンをやめて昼ご飯はあんかけスパゲティを食べることにした。
あんかけスパゲティを食べながら思う。あんかけスパゲティは、とろみのある「あん」が太い麺に絡んで、独特な見た目になるのも特徴の一つだな、と。ここで、頭に雷が落ちる。
これはあんかけスパゲティらしさのあるテクスチャというやつだ……!
余談だがパターン化された画像という方の意味で出てきたラーメンの丼によく入っている渦巻マークは「雷紋」という名前で、雷を象ったマークである。調べたときにこのマークが出てきたからぼくの頭に雷が落ちたのかもしれない。何が繋がるか分からないものだ。
というものの、最近渦巻マークがラーメン丼に入っていることが少なくなった気はする。そう考えだすとラーメンマークのようにぐるぐると思考が渦を巻いてしまいそうなので、ぼくはラーメンマークについては考えるのをやめた。
さて置き、多分ラーメンの見た目を表す言葉として誰かが「テクスチャ」「texture」という言葉を使い始めたのだろう。それを色々な理由からいいと思って色々な人が使い始めて今に至るのだと思う。ぼくはこのときまで耳目にしたことはなかったが。やはりいじめかもしれない。
ちょっと範囲を広げて調べてみると、ラーメンのみならず、(トンカツなどの)ソースの見た目や質感について触れる文脈でもテクスチャという言葉が使用されているようである。だんだん「テクスチャ」という言葉は色んな所に進出を始めているようだ。食レポやレビューがテクスチャという言葉で埋め尽くされる日は遠くないかもしれない。
ところで、この「テクスチャ」という言葉は「食感」という意味合いで用いられることもあるようである。この場合のテクスチャは固さ、噛み応えなど、口に入れた後のことを指している。食べ物とテクスチャという言葉の関係で言うと、むしろこちらの方が伝統的な使用法のようだ。
たとえば、である。「このふぐ刺しのtextureが最高!」と書いたときにふぐ刺しの薄さや透け感、つやっぽさなどの見た目について指しているのか、コリコリした食感について指しているのか、分からないということになる。
逆に、ふぐ刺しという料理は見た目と食感両方に関してテクスチャという言葉を用いて表現するのに適した料理とも言える。もしかしたら近い未来、ふぐ刺しを指す「てっさ」という言葉は「テクスチャ」が訛ったもの、と説明されることになってしまうかもしれない。
幸い、まだふぐ刺しに関して言及する文脈でテクスチャという言葉は使われていないようである。この世におかしな説が生まれてしまわないように、ぼくは食べ物が登場する文脈でテクスチャという言葉を使うのをやめることにした。
ただそれでも、この件に関する衝撃は大きく、尾を引いている。しばらくは食べ物を見たときにテクスチャという言葉がよぎりそうである。
これを読んだ人がそうならないことを祈るばかりだ。
このページをかいたひと:藤盛仁輔
ライター。このサイトでは半年で日本二周したときに訪れた場所についてなどをかいています。