はじめに
※この投稿は概ねノイジーな怪文書です。ゆっくり味わってください
※この投稿は「バンめし♪」の楽曲に関する内容ですが、別に「バンめし♪」のことを知らなくても読めます。でも「バンめし♪」って何だろう、と思った人は以下の記事を少し読めば何となく分かると思います。
ついでに、この「バンめし♪」と関わりの深い郡上八幡に関する内容について書いた記事もあるので、合わせて読むといいかもしれません。この投稿を読む助けになるというよりは、また別のフレイバーが得られる内容です。
追憶のアリアを作ったのは誰か
郡上八幡のことも書いたので、「追憶のアリア」のことを書こうと思う。この曲は「バンめし♪」に登場する「吉廻千代(よしざこちよ) 」が歌っているものだ。千代の声は、髙橋ミナミ(旧名:高橋未奈美)さんが担当している。
先行する「バンめし♪」全体の記事や、郡上八幡の記事では「バンめし♪」世界と現実世界の境界をやや曖昧にして書いていたが、この投稿ではそういう風には書かずにおく。具体的には「設定」とか「C.V.」のような、「バンめし♪」を創作物として意識するような単語を使っていなかったが、この投稿では使う、ということだ。
「バンめし♪」の中で誰々が曲を作って公開したという話が出たとする。それに合わせて我々の世界では楽曲公開、CDや楽曲データの販売が行われる。そういう風にコンテンツが組み立てられている、という風に正面から表現をする、という話である。
さて本題。「追憶のアリア」に関して言えば、千代が周囲の人達の協力を得て制作した楽曲という設定になっている。歌っているのも千代である。一方で我々の世界においては、作詞・作曲・編曲を辻林美穂さんが担当し、それを歌っているのは千代役の髙橋ミナミさんだ。
ここで問題になってくるのは、「追憶のアリア」を作ったのは誰でしょう?という問いである。「バンめし♪」寄りの思考で考えるのであれば「ざこちよ」である。ちなみに「ざこちよ」というのは「バンめし♪」の主人公にあたる「栗花落夜風」が「吉廻千代(よしざこちよ)」を呼ぶときの表現だ。「白兎団(「バンめし♪」ファンや関係者の総称)」の人は大体千代のことを親しみを込めて「ざこちよ」と呼んでいる。なお、千代本人は「ざこ」という響きを嫌って「よ!し!ざ!こ!です!」と鼻息を荒くして返すのが定番のやり取りだ。
ちなみにぼく自身はというと千代のことを「ざこちよ」と表記したいとは基本的に思っていない。本人が嫌がっているからとかそういう要素もあるが、とてもではないが「ざこちよ」とは呼べない。呼べない理由は後々書こうと思う。じゃあ「千代」と呼び捨てにするのが適当なのかというと(自分の中では)議論が必要だが。TPOに合わせて「千代」と「ざこちよ」を使い分けようと思う。「ざこちよ」という響きはかわいいので仕方ない。
何の話をしていたのかと言えば、「追憶のアリア」を作ったのは誰か? という話だ。これを現実世界寄りで考えれば「辻林美穂さん」という回答になる。しかしながら、他にもピアノの飯島快雪さん、ギターのqurosawaさん、ベースの大澤伸広さん、ドラムのワタナベタカシさん、バイオリンの阿部美緒さん、ミックスの赤井聡史さんも作った人に入ってくるだろう。もっと言えば、辻林美穂さんが相談したやぎぬまかなさん(「バンめし♪」のテーマソングにあたる「ビター・エスケープ」ほか関連楽曲を多く担当)も外すことはできない。
それに、「法隆寺を作った人は誰?」の回答として一般的に言われる「聖徳太子」にあたるTOMOSUKEさん(プロデューサー。バンめしおじさん、ひなビタおじさんとも呼ばれる)も外してはいけない。ちなみに「法隆寺を作った人は誰?」に対しての「大工さん」に対応する回答が上に登場する方々だと思う。それと、「ざこちよ三部作」の前二作にあたる「箱庭のエチュード」「変革のプレリュード」もこの楽曲が作られるのに当たって無視してはいけない存在だろう。言い出すとキリはない。
ちなみにここに書いたアレコレは辻林美穂さんのブログとCDの歌詞カードのクレジットが出典だ。
色々と書いたが、ややこじれた考え方をすると、「ざこちよ」が制作した楽曲と辻林美穂さんの制作した楽曲は同一ではないと考える事もできる。この表記だけでぼくの意味するところが分かった人とはいいお酒が飲める気がする。ただ、そんなに自分の言っていることを理解してもらえるとは思えないので少し説明をする。
「バンめし♪」世界において「ざこちよ」が制作した楽曲には、別の次元に住んでいる我々はアクセスすることはできない。それを我々がアクセスできるような形にしてくれたのが、先に挙げた制作陣の方々と考えることもできるのではないだろうか。
そして、ここで制作された楽曲の内容はコンテンツ側に逆輸入される。「バンめし♪」世界が我々の世界に影響を与えて楽曲を制作せしめ、その楽曲が「バンめし♪」世界にも影響を与えるのだ。
「声」に関しても同じように考えることができる。我々の世界からは聞くことができない「ざこちよ」の声を我々に聞こえるように翻訳して聞こえる形にしてくれているのが高橋ミナミさんなのである、と。
ただ、これはそう考えることもできるというだけの話で、数ある解釈のうちの一つに過ぎない。なにより、こんな解釈に立脚して話をしても前提条件の説明がややこしすぎる。「追憶のアリア」を作ったのは辻林美穂さんだし、歌唱を担当しているのは高橋ミナミさん、そういう表記でいいよね。結構な文字数を使ってそういうエクスキューズをしたのがこの見出しの一連の文である。つまりこの見出しは読み飛ばして大丈夫な部分だ。最後に言うな。
このショートVerには問題がある
さて、「追憶のアリア」の話をしよう。CDなどで楽曲のデータを購入する前に多くの人が試聴版の確認をすると思う。「追憶のアリア」にも、Youtubeに試聴版に近いものが存在している。ショートVerという名称だ。
ここまで読んだ人なら多分続きの文も読んでもらえると思うので、動画を見られる環境にある人はまずは聞いて欲しい。オシャレだけどどこかもの悲しい楽曲だ。ジャケットイラストも相まって、いわゆるシティポップっぽさがある。
これはCD版ではGame Verという名称で収録されているものと同一だ(と思う)。「バンめし♪」はKonamiの音楽ゲームに関連するコンテンツなので、制作された楽曲の多くがBEMANIシリーズのゲームに収録される。このショートVer、Game Verは実際にゲームに収録される際に使用される尺と言って良さそうだ。
ちなみに、このGame Verでも実際にゲームに収録された音の全てを聴けるわけではない。ぼくはピアノを模した「ノスタルジア」というゲームをよくプレイしている。「追憶のアリア」にはピアノパートがしっかりあるので音源とゲームで聴ける音の違いはそんなにない。しかし、ピアノなしのロックバンド風楽曲が収録されるととんでもないことになる(ことがある)。もしも元の楽曲に(個性の強い)ピアニストが参加したらこういう事になる、と言わんばかりに原曲にないフレーズがガンガン入っていたりする。ぼくはそういうのも好きなのでそれはそれで楽しい。
という話とは関係なく、「追憶のアリア」のショートVerはかなりの問題作だとぼくは思っている。問題のポイントは、その歌詞にある。まずはこちらの歌詞をご覧頂こう……の前に歌詞を読む方向性の話をしておく。
「バンめし♪」や「ひなビタ♪」の楽曲の歌詞は登場人物が作詞したという設定で、本人の想いを歌ったという設定のものが多い。つまりいわゆる「キャラソン」的側面が強いのでそういう方向で解釈するのが良さそうである。余談だが、その極地にあるのが「ひなビタ♪」に登場する「和泉一舞(いずみいぶき)」が歌う「イブの時代っ!」である。サビの1フレーズ目が「イブのセンスNo1」だったりして、なかなか衝撃的だ。このため(これだけではない)和泉一舞は一部の登場人物から作詞のセンスがないといじられている。ある意味センスはNo1だ。
例によって余談が過ぎた。「追憶のアリア」の話だ。この曲が作詞されたのは、「ざこちよ」が絶賛家出している期間だ。何故家出していたのかというと、将来の女将としての修行の毎日を送る中、バンド活動など自由な行動が制限されたから反発して、というよう話である。
ちなみに家出した結果、ざこちよは廃ラブホテルに住んでいる。ざこちよは高校一年生である。なかなかチャレンジャブルな状況だ。この状況を作り出したのは謎の大物「白兎」である。ちなみにの中に余談を加えるのはどうかと思うが、「ひなビタ♪」と「バンめし♪」の両方を知っている人の99%以上が「白兎」は「ひなビタ♪」の「芽兎めう」だと確信している(明かされていないだけでほぼ丸出しなため。ただし、見た目もかなり変わり、語尾に「めう」を付けたりしない物静かな人物になっているので一体何があったんだろう、というのは非常に興味深いところだ)。
さて、追憶のアリアの歌詞の話だ。本当は全文引用して語りたいところだが、一部を抜粋する。まずは歌い出しである。
研ぎ澄まされた夜が 眩しい この景色は 誰かの涙で出来てるの? 濁ってしまえばいい と願った あの水面さえ 今じゃ…
「八萬町」=「郡上八幡」が水の街であることを考えると、「濁ってしまえばいいと願ったあの水面」を含む「景色」を作るために、自分のように老舗旅館などを継ぐために自由を奪われた者が必要、という悲哀を表しているような歌詞である。
そしてサビだ。
途切れそうな今と過去(きのう) まだ 綻びながら 繋がっている 時の穢れを祓うように 柔らかく 紡いでゆくよ 暗闇を駆け抜けて 透明な未来(あした)を見に行こう 果てない夢が醒める頃 始まりの幕はあく
ところどころ解釈が拡散しそうな部分があるが、自身を抑圧する街の呪縛やそれから解き放たれた先の未来に対する希望を歌っている、そんな風に読めそうだ。
動画で曲を聞いた人には伝わると思うが、ストーリーの流れも相まって支持を集めそうな感じは伝わるのではないだろうか。実際、この曲は「ふるさとグランプリROUND2~夏の陣~」の楽曲部門を獲得している。
ところが、それだけだったらぼくはわざわざこんな怪文書のような文を書かないし、この見出しのタイトルも「このショートVerには問題がある」にはならない。「追憶のアリア」はこんなところで終わる楽曲ではなかったのだ。
このロングVerには問題がある
「追憶のアリア」のデモVer(歌詞が入っているもの)がアップされたのが、2020年の8月11日、ショートVerの完成品がアップされたのは2020年の9月1日(今アップされているのは再アップされたものなので日付が違う)。CDの発売日と「ふるさとグランプリROUND2~夏の陣~」で楽曲部門獲得が発表されたのが2020年の9月16日。
ぼくはCDを予約していたので、発売日に家に届いた音源を聞いた。ちなみにSpotifyでフルバージョンが聴けるので、ここまで読んでしまった人なら聴きたいと思ってくれるはずなのでリンクしておく。最後まで読んだあと、この楽曲がいいと思ったら、どこかで購入して欲しい。ぼくには何の得もないけれど。
歌い出しはショートVerと違い、ほぼストリングスとピアノのみのしっとりとした編成だ。先に書いた伝統を守るために犠牲になった者たちの悲哀、みたいなものが増幅されているような気がする。聴き進めていくと、ショートVerとの相違が浮かび上がってくる。
1コーラス目のサビが違ったのだ。
途切れそうな今と過去(きのう) まだ 綻びながら 繋がっている 私は いつも眺めるだけ それじゃ 何も変わらないから 暗闇を駆け抜けて 透明な未来(あした)を見に行こう 操り糸が切れる頃 始まりの幕はあく
ショートVerのサビでは少し解釈の幅がありそうだったが、より明確に現状からの脱出を望むような色合いになっている。操り糸が切れる、というフレーズなんかはなかなか刺激の強い言葉遣いだ。
ところが、2コーラス目からどうにも不穏な空気が漂い始める。
「窮屈だって悩んでたあの頃が麗しい」と いつか思えるなら
ここは2コーラス目のBメロだ。老舗旅館の次期女将という立場からの脱却を目指すみたいな詞だと思って聴いていると「麗しい」というフレーズがどうにもしっくり来ない。そしてサビで爆弾が投下される。
疑いを脱ぎ捨てて 聡明な鎖を身に纏う 絡繰りが ほら 解けぬよう 風に 髪を委ねた
現在の抑圧された環境を投げ捨てるのではなく、その環境に戻っていくような言葉選びだ。そしてそれは続くCメロ(大サビ)で更に牙を剥く。
美しいその場所へ 降り立てると信じていたけど 思い通りには 飛べなくて 引き寄せてくれたのは 私が断ち切ろうとした糸 覚束ないこの手で もう離さないよ
ここまで来て、ショートVerで感じていた解釈から完全に違うところに飛び立っていることに気付いた。そしてラスサビだ。この歌詞はショートバージョンのサビと同一である。
途切れそうな今と過去(きのう) まだ 綻びながら 繋がっている 時の穢れを祓うように 柔らかく 紡いでゆくよ 暗闇を駆け抜けて 透明な未来(あした)を見に行こう 果てない夢が醒める頃 始まりの幕はあく
ただし、はじめの部分はしっとりしているので聴いた感じは全然違う。ショートVerでは解釈が拡散しそうだった部分は状況証拠と相まってかなり像を結んできた。
「時の穢れ」は環境を捨てようとしたこと、と読めるのがその最たるものだろう。他にも、抑圧された環境からの脱出という固定観念で聴いていたショートVerでは「暗闇」=「抑圧された環境」、「透明な未来」=「そこから脱出した明るい未来」と読めていたところは完全に逆転するのだ。「暗闇」=「環境に対する疑念を抱いていた状況」、「透明な未来」=「疑念を払い、曇らない目で街を見ている状態」というように。「(この街を)愛し続ければいいと悟った(2コーラス目のフレーズ)」のである。
ロングVerの1コーラス目のサビに出てくる「暗闇」「透明」がラスサビでは違う意味合いになっているところもすごい。
なお、詞の全文はうたまっぷで読めるので、引用していない部分も含めて味わって欲しい(うたまっぷへのリンク)。
しかし、これはどういうことなのだろうか。絶賛家出中の状況とこの詞に何かチグハグなものを感じる。
1日後、更なる爆弾が投下される。
きみはもうざこちよではない
千代が実家に戻った。細かいことは語られていないけれど、家出を経て次期女将としての決心が固まったということなのだと思う。古くから続く伝統に伴うしがらみを否定したけれど、郷土に対する愛は消せないと思ったのだろう。
現状から抜け出すという流れの中で、もう一度自分と「ふるさと」について見つめ直し、元の場所に戻っていくという決心をした千代はとても強い人間だと思うし、尊敬できる。もう千代のことを「ざこちよ」とは呼べない、そうぼくが言うのも分かるのではないだろうか。まあ呼ぶけど。かわいい表記だし、「よ!し!ざ!こ!です!」が聞きたいし。
郷土を捨てる人、守る人、それぞれに想いがあるし、そう思うように至った経緯はみんなそれぞれなんだ、そう思えた。実は栗花落夜風も脱出したいと言っていた「ふるさと」に対して少し違うアプローチを取っていたりするので、この時期は「バンめし♪」の全体の流れの中で非常に重要なポイントであると思われる。
ところで、実家に戻った千代であるがただただ言いなりになるのではなく、(伝統地区の中の人としては)やや過激な発言もしている。これからの活躍が楽しみである。
ウワーッ! ヤラレター!
これはぼくの読解力に問題があるだけなのかもしれないが、ショートVerとロングVerでは、敢えて違う聞こえ方になるように仕上げてあるのではないかと思う。勿論、ロングVerのテーマと同じテーマとしてショートVerを聴けた人もいるだろう。
ただ、自己弁護をするようだがぼくは思う。千代が実家に戻る発言をしたタイミングが完璧すぎるのだ。これはいわゆる「やってる」というやつではないか。わざと誤認を招くように楽曲を仕立てたのではないかと。まあたまたま都合上ショートVerはそういう切り取り方になっただけで狙っていなかったのかもしれないけれど。
真偽のほどは定かではないが、ぼくはそういう演出がとても好きだ。こんな素敵な経験をさせてくれた「追憶のアリア」は、ぼくの人生の中でもトップクラスに好きな曲だ。同じようなものに、アニメ「化物語」のエンディングテーマ「君の知らない物語」のTVサイズとフルバージョンの違いがある。あれも最高だ。
ついでに書かなくてもいいことを書いておこう。まるで楽曲発表の時系列に合わせてぼくが追憶のアリアの解釈に振り回されたように書いているがこれはただの脚色、広い意味で言えば「嘘」である。ショートVerとロングVerの聞こえ方が違うことと、千代が実家に帰ったタイミングの符合に気付いたのは実はつい最近だ。
郡上八幡の記事を書くのにあたり見直していて、追憶のアリアを聴いていたらそうも考えられると気付いただけである。こういう事を書かなければもう少しすごそうな人に見えるだろうな、と思いつつキーボードを滑らせるぼくだ。
最後に
「追憶のアリア」はその背後に流れているストーリーの良さもあるが、楽曲単体で見たときの説得力の強さも魅力の一因である。千代の声を担当している高橋ミナミさんの歌声は、間違いなくその要素の一つだ。
この曲を聴いてこんなに揺さぶられたのは、高橋ミナミさんの表現があったからだと思う。特にCメロの物悲しさは必聴だ。ラスサビも、自信を持って踏み出すような力強さを感じさせる。
ところで、高橋ミナミさんは「ウマ娘 プリティダービー」でややコメディタッチのキャラクタ「エルコンドルパサー」の声を担当している。ウマ娘で「ケ!」とか言っている一方でこんなにしっとりとした物語性のある歌を歌っているわけで、改めて声優さんというのはすごいなと思うのである。
長々と書いてきた怪文書のような文字の塊の最後にそんなありきたりなことで締めるのはどうかとも思うが、すごいものはすごいと言わざるを得ないと思いつつキーボードを滑らせるぼくだ。
このページをかいたひと:藤盛仁輔
ライター。このサイトでは半年で日本二周したときに訪れた場所についてなどをかいています。